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陶芸を中心に愛犬柴犬、趣味の家庭菜園、釣り、テニスなどを画像入りで書いていました。今は花・自然・テニス・釣り・料理・旅行などを日記風に綴っています。

南風原文化センター・南風原壕群20号を訪ねて
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         * 南風原(はえばる)の地に咲く甘い香りの月桃花


5月17日に沖縄陸軍病院南風原壕群20号を訪ねました。
娘の宿舎から徒歩で30分でした。

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先ず、南風原町役場近くの慰霊祈和之塔にお参りしました。

300mほど行くと、中央公民館横に南風原文化センターがありました。
入館し、冷たいお茶をいただいてから館内を見学しました。

南風原文化センターは町立でした。
展示内容は、「南風原の沖縄戦」・「戦後・ゼロからの再建」・「移民」・「人々の暮らし」に分かれていました。

展示室へは、沖縄陸軍病院南風原壕群20号を再現した通路を通って行きます。

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食べ物を運んでいるひめゆり学徒です。

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負傷した兵士の枕元に、ピンポン玉くらいの握り飯が置かれていました。

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19号・21号と交差する「広場」で、麻酔なしの手術が行われました。

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上掲の画像が不鮮明なので、パンフレットの一部を紹介します。

 沖縄陸軍病院は1944年5月に熊本で第32軍の陸軍病院として編成された。6月から那覇市内で活動を始めたが、同年10月10日米軍の空襲によって施設が焼失し、南風原国民学校に移転した。それ以降、第32軍野戦築城隊の指導のもとで、字喜屋武と字兼城に約30の横穴壕が造られた。米軍の艦砲射撃が始まった1945(昭和20)年3月下旬陸軍病院は各壕へと移った。広池文吉病院長以下、軍医、看護婦、衛生兵ら約350人に加えて、3月24日には沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒)222人が教師18人に引率され、看護補助要員として動員された。
 4月1日の米軍上陸後、外傷患者の激増に対応する為、外科を第一外科、内科を第二外科、伝染病科を第三外科へと改めた。5月下旬、第32軍司令部は摩文仁へ撤退を決定し、陸軍病院に撤退命令が出された。その際、重症患者に青酸カリが配られ、自決の強要が行われた。・・・・・


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私は南風原文化センターから「飯あげの道」を通って、陸軍病院南風原壕群20号へ向かいました。

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文化センターあたりで炊いたご飯を壕群まで運ぶのは、大変な苦労でした。

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20号の壕の近くの広場に、「鎮魂」の歌碑と憲法九条の碑がありました。

20号の入口には、3人の係りの方がいました。
壕の中を案内してもらうことにしました。

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ヘルメットを着用し、懐中電灯で足元を照らしながら進んでゆきました。
文化センターの壕よりも低くて狭い壕でした。
何度か頭を天井の岩に打ち付けました。

19号と21号は崩れて埋まっていました。

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案内の青年と出口で別れました。

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出口の向こうに野球場や陸上競技場があり、山裾にブーゲンベリアの花が咲いていました。
戦後70年が経って、戦争の悲惨さがますます風化してゆくばかりです。

南風原町は1990年、戦争の悲惨さを伝える証しとして、第一外科壕群・第二外科壕群を町の文化財に指定しました。
こうした南風原町の取り組みは大変素晴らしいことであったと、私は深く感銘を受けました。

    2015.5.17               くまお


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世界遺産 玉陵(たまうどぅん)を訪ねて
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              * 世界遺産 史跡玉陵

首里城見学の後、琉球王府の陵墓玉陵」を訪ねました。
タクシー運転手さんのお薦め史跡です。

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まず、観覧券を購入すると、資料展示室に案内されました。
首里城とは違って、観覧者をほとんど見かけませんでした。

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玉陵は1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、第二尚氏王統の陵墓となりました。

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墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前に遺骸を安置する部屋、創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には、墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られました。

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             * 太平洋戦争直後の荒れ果てた墓室


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展示室を出て、玉陵に向かいました。

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フクギは大木からは想像できない、可愛い花をつけていました。

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                * 玉陵を正面から見た全景

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                   * 木の扉の門をくぐる

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広々とした前庭の奥に墓室が見えました。

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                 * 左から東室、中室

室内には入ることはできません。
玉陵を説明する録音が、遠く青い空に繰り返し流れていました。

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ガジュマルの大木に囲まれた史跡は、ゆったりとした静かな時を刻んでいました。

私は午後5時までに帰る約束を思い出し、タクシーを拾って南風原町の宿舎に戻りました。

     2015.5.18             くまお


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